STAY REPORT
今中隊員の南極滞在記
2.観測隊の業務と研究編
株式会社アイティー技研 代表取締役の今中です。
私は2004年11月~2005年3月の約4ヵ月間、第46次南極地域観測隊として
南極で微生物の探索業務を行いました。
その南極滞在記を4回に分けてご紹介いたします。
このページでは、南極滞在記その2「観測隊の業務と研究編」をお楽しみください。
野外地域へでかけるときは、このような赤い作業服を着用しました。 赤であることは安全対策において重要です。周囲が白いので目立つようになっています。
しらせにはヘリコプターが2機積まれています。 この海上自衛隊のヘリコプターは、人員や装備の輸送に大活躍です。
ヘリコプターの着陸場所を発煙筒で知らせます。 ヘリは煙の方向を見て、向かい風で着陸をします。
まずはHFアンテナを立てて、昭和基地と交信します。 その後テントを張って、寝床を準備します。 こうして南極をあちこちと点々と移動するわけです。 大体4日~1週間ぐらいで次の場所へ移動します。
写真のテントはみんなで食事をするためのテントです。
各自のテントと、石を並べて作ったヘリポートです。 テントの場所は好きに選ぶことができます。 私のテントは写真一番奥、つまり海辺です。 朝の景色が本当に壮大できれいでした。
これは各自に配られた食器類です。食後は簡易洗浄し、ペーパータオルは日本で焼却します。
GPSは立派です。南極でもぴたっと同じところに移動できます。
凍らない塩湖ではボートで観測に行きます。魚も植物もいません。いるのは苔と微生物です。
氷に穴を開け、水質調査を行いました。
氷の厚みは約1mです。
湖底から沈殿物を採取。4m以上の資料が得られました。
これは4000年分の沈殿物に相当します。
ちなみにこの写真は大手新聞社のニュースにも掲載されました。
縞状の沈殿物が見られます。
1mで1000年分です。
岩山は塩で道ができていました。
高塩湖の塩の結晶です。
ここは昔は海の中でした。
地球はまだ柔らかかったので、南極大陸は雪と氷の重さで沈んでいたのです。
大氷河期から1万年ぐらいでだんだんと暖かくなってきました。
そのため氷が溶け、南極大陸は30数メートル浮き上がってきました。
そして乾燥して塩が残りました。場所によっては雪が溶けてできた湖は淡水湖に。
塩分濃度の違いで、低塩湖、中塩湖、高塩湖といった具合になります。
様々な塩分濃度の湖ができるのは、南極ならではです。
ここは塩でベトベトでした。
普通、土は茶色ですがこの泥は黒色。ここには嫌気性微生物がいるはずです。 硫化水素と鉄が反応して硫化鉄を作っているからです。
タイの研究者も同行、日本隊がサポートをしました。
現在、バンコクのチュラロンコン大学の海洋科学部の先生をされています。
彼は南極上陸したタイ人としては二人目。国旗を差した写真がニュースとなり
プミポン国王に謁見して時の人となりました。
しらせと氷山。海上で撮った南極らしい写真です。
ところで氷山がどこからやってくるのかご存知ですか?
南極大陸で大量の雪が積もって、重みで圧縮されて氷になります。
さらに上から雪が積もってきます。これがじわじわと動いてくる。
それが海にずり落ちます。これが海に浮かんでいる氷山です。
なので、氷山には塩分が含まれていないのです。
昭和基地から眺める「しらせ」。
ここでは生物関係の研究もしています。冬にはこの高さまで氷雪が迫ります。
南極で代々伝わっている技術で作られているという、
南極特産地ビール「ペン太郎ブロイ」。
味は格別!こんな美味しいものができるのかと驚きました。
唯一南極で亡くなった日本の南極地域観測隊員、福島紳さんの慰霊ケルンです。 第3次、第4次観測隊に参加していました。 1960年10月、彼は昭和基地主屋棟付近につながれていた犬の餌やりに屋外に出た矢先に 強烈なブリザードに巻き込まれ、そのまま行方不明となりました。 その後1968年2月、第9次観測隊により遺体で発見されました。 発見されたのは昭和基地から4kmほど離れた場所。 基地の方向がわからず、ブリザードの中をさまよい続けたと考えられています。 南極の過酷さを物語っています。
山の上に掘削基地があります。3000mの氷を掘っていくことで、何万年も前の空気の組成がわかります。
深度3000mの氷、実質72万年ぐらい前の氷です。
最深のコアです。
続いて、南極滞在記その3
「南極の生物編」
をお楽しみください!